山行二人 よもやま話

横丁の角を曲がれば旅人。このフレーズが好きな人間です。

2020年07月

旅人になるために横丁の角を曲がる(2)July 2020

前回のブログで人参方に入った時に見た建物が少し気になったので
撮影したのです。どうしても昭和風の、それもかなり前の建物のように
見えたので、ワンショット。じつはこの建物は病院のようでした。
子供ころ、私の家の近所にも歯科医院や小児科医院がありましたが、いま
思えばこのような建物だった気がします。歯医者に行くのは特に嫌でした😢
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あとで表札を確認したら「〇〇歯科医院」とありました。いまは閉院のようです。

人参方を東側へ過ぎると南北に走る道路にぶつかります。

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そして、左手に見えるのが賣布神社(めふじんじゃ)右手の道路はかつては川が
あって前方に見える橋の下の大橋川に繋がっていたようです。ですからもともと
前方の橋はなかったとのことです。そして昔は川の右側には、盛り場などがあった

ところで今も夜は人が集まるところです。ただコロナ禍中いまは少ないかな♪
この売布神社は女子のパワースポットになっているそうです。
https://matsue.mypl.net/mp/spiritual-spot_sanin/?sid=24840

今渡っている橋は新大橋、そして前方に見える橋が松江大橋、さらに見えないですが
奥に宍道湖大橋という新しい橋があります。

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新大橋を渡って西に進むと、松江赤十字病院があります。屋上にはドクター
ヘリ用のヘリポートが見えてます。結構発着音が聞こえる時があります。

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真ん中の低い建物は旧日銀の建物で、いまはカラコロ広場といって観光客用に
開放されて、カフェやレストランそして土産物店になっています。
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さあ、今度は最長の橋を渡って帰ります。右に折れれば出雲市に行きます。
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その傍にある須衛都久神社(すえつぐじんじゃ)があります。前の道路はもともと
なかったもので、宍道湖大橋に繋がる道が必要だったので鳥居が傍にあるのです。

DSCN9871
http://www.komainu.org/simane/matuesi/suetugu/suetugu.html

そして宍道湖大橋から見える山が、我々も良く登る和久羅山と嵩山です。
DSCN9412
この二つの山の稜線をちょっと目でなぞって見てください。何かに見えませんか?
そう見えましたか、女性の寝姿に。和久羅山が顔と鼻、そして嵩山が女性の胸に・・
旧制松江高校(現島根大学)の学生たちが親しみを込めて、メッチェン山と呼んで
いたそうです。当時必修科目がドイツ語でその意味は「少女」という意味とのこと。
男子高故にユニークな名前を付けたものですね(笑)ちなみに豊満な嵩山が330m、
顔の和久羅山が260mの標高があります。撮影場所から直線距離で和久羅山山頂まで
約5km、嵩山まで約5.45km離れています。

ちなみに、嵩山(胸の部分)から見た宍道湖大橋の撮影場所 赤い↓ 
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そして、和久羅山(顔のおでこの部分)から見た宍道湖大橋の撮影場所 赤い↓ 
DSCN8298
和久羅山からの撮影は少し望遠を使っていますが、微妙な撮影角度の違いが
お判りになりますでしょうか、結論をいえばどうでもいいことなんですがね(笑)

宍道湖大橋を渡り切ったところに、NHK松江放送局があります。
DSCN9873

そして、この放送局のまえに白潟公園があり、公園の柵にこれが貼ってありました。
DSCN9880

松江城の雪 

出雲地方の雪」は粉雪よりも牡丹雪が多い。それは豊麗で温いだけに

日が射せば解け易く風が吹けば崩れ易い。それ故牡丹雪の処女美は

降りやんだ直後味わうのほかない。

深雪が曙光を浴びた神々しさと落日が一閃に輝く華麗さ。それを惜し

みなく示現するのは松江城の情景中でも特筆に値する。いわんや新春

早々松江城に登 って白雲の中に眠る宍道湖を一望におさめ、また大山

から三瓶。 山に至る中国山脈の雪また雪の山海を見渡しながら想いを

遠く大蛇退治や国引きの古事に走らす情趣に至っては、蓋し他の追随を

許さぬであろう。 (文・太田柿葉 絵・三谷 長博)
国宝松江城

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白潟の海老篝(しらかたのえびかがり)

土地で成長された郷土の人の目には小さい時から見なれているかげ

んか、これが天下に誇るに足る宍道湖独得の美しさだという感じが案外

少いのではなかろうか。秋の一夜天神裏から白潟の湖岸へ抜け出て湖上を
見渡すと、玉造灘のあたりから秋鹿の辺へかけて、漆黒の闇にまるで

「九連宝燈」のように点々とかけ連った燈色の美しさ、ただ驚嘆するばか

りである。遠望もよい近くの岸辺で一つ二つ風に瞬いて燃えているの
なかなかの風情がある。
「また一つ燃ゆる近くの海老篝 」 
(文・三井真一郎 
絵・木村義男)

 現在、県立美術館になっているところに白潟小学校がありました。DSCN9891


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天倫寺の晩鐘 

松江の町の西端の湖岸にうしろに立て古びた寺がある。

ここからの宍道湖の眺望はやわらかく広い。右の方には松江の町も眺め

られるが、町の雑踏はここまではとどかない。新しいものは何もない。

すべてが遠く古い。湖岸を時おり走る電車の音がかえってこの古さを確

かめる。それは枯死してしまった古さではない。いわば生きている古さ、出

雲の伝統の深さである。たそがれ、高麗の鐘が入相をつげる。その音は寺

のうしろの山にこもり、やがて湖の上をはるかに消えてゆく。鐘の音は寂

しい。古い出雲への郷愁の音のようになつかしく寂しい  
(
文・駒田 信二 絵・三谷長博)。

この正面に天倫寺温泉があります。
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大橋の朝
空か湖かの見わけもつかぬ辺りから微かな櫓の音が未ださめやらぬ

夢をのせて湿っぽい音をきしませながら近づいて来る。

間もなく霧よりも白い大根を満載した小舟が、大橋の袂に着くと、霧に

ぬれた柳の残り葉がニツ三ツ、ぽとりぽとりと落ちて風情をそえる。

東方の霧がオレンジ色にぼや気けて、太陽が昇り初めた気配を示すと

大橋川の両岸に列んだ家々の灯影が消えて、今まで大橋を深く濃く

おおっていたは神秘な匂いを漂わせながら、西へ西へと湖の彼方へ

流れ去る。 

(文・太田 柿葉 絵・三谷長博)

最後に宍道湖に夕日が沈む西側対岸を望むと手前の山が旅伏山(412m)、その左が
鼻高山(536.3m)です。コロナでなかなか山に行けないのが残念です。
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鼻高山は出雲北山山系で一番高い山になります。
ここからの夕日は最高に美しく、たくさんカメラマンが夕方になると集まってきます。
でも、秋口から冬の
澄み渡る空気の中で、晴れた日に見られる夕日が最高です。
山陰の本当の姿を見たければ、冬に来るのが一番といつも思う私です♪






旅人になるために横丁の角を曲がる・・July 2020

まだ、梅雨も明けぬコロナ禍の昨今、世間ではGo To トラベル キャンペーンで
混乱してはいますが、まだまだ物静かな当地。しかし、山へ出かけられるほどの
天気も回復せずに毎日を過ごすことに、少々飽きも来たので運動がてら街中を
散策してみました^^

まだ、昭和を感じさせている商店街ですが、やはり大型店の出店によって
徐々に閉店せざるを得ないことになってきています。

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でも、角店の小さな下駄屋さん、ローカルのCMにこの店の様子が映ると、いいね!
ボタンを押したくなるような気になりました。今も健在に商売をしていますよ。

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私の住む街から北に歩いていくと、天神川にぶつかります。
昔、高架がないときは、踏切でした。遮断機の上げ下げを人力でしていました。
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正面の橋の奥が宍道湖で、この高架は山陰本線になります。
この高架の右側には白潟天満宮がありますのでこの橋が天神橋になります。
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そして、天神橋の上から右を見ると変わった建物が見えます。なんだと思いますか?
DSCN9848
中電の変電所を漆喰の建物で囲っているのです。

ここにも一人旅人がいました^^
両手に荷物、はるばるアイルランドから松江に来た人です。

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そう、ラフカディオ ハーン、小泉八雲です。
機会があれば、小泉八雲の話をしてみたいですね♪

小泉八雲を追い越して、すぐ右に折れると・・

これは現在の人参方、門構えに瓦屋根の一部が残っています。

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大きなお屋敷も残っていますが、いまはどなたのお住まいかは確認していません。
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2~300坪以上もありそうなお屋敷です。人参方に携わった方の屋敷かも・・

そこで話は一挙に飛びます・・失礼します。
志賀直哉と芥川龍之介の松江滞在の時に記された文章があります。
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松江はほとんど、海を除いて『あらゆる水』をもっている。椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでいる壕の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように青い川の水になって、滑らかなガラス板のような光沢のある生きているような湖水の水に変わるまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら、随所に空と家をその間に飛び交うつばめの影とを映して絶えず物憂い呟きをここに住む人間に伝えつつあるのである。
芥川龍之介 「松江印象記』より抜粋

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ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町は
ずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分なかった。庭から石段で直ぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰(まこも)が生え、寂びた具合、濠というより古い池の趣があった。
志賀直哉 「環端の住まい」より抜粋
志賀直哉は画面右側の瓦屋根がわずかに見える付近の借家に住んでいたと思います。
志賀直哉の文章が的確に家の周りの風景を描写していて驚きました。

今回の散歩はこの辺まで。できるだけ観光とは関係ない道を歩いて見たいと思って
いますが、観光都市だけに皆さん知っているところも多いでしょう。しかし、
横丁を曲がったことでの新発見もまた楽しからずや、そういうところを探して
歩いてみたいと思うところです。




 





 







コロナ禍や豪雨災害の中、少し息抜きは?

政府や東京のコロナ対策にどう納得すればいいのか、また自然災害の中、
切実にどうすればいいのか分からず、「ただ笑うだけかな」と涙ながらに
訴える被災者、幸いにコロナも自然災害にも、まだ向き合わずに済んでいる
我々も油断すれば、いつか同じようなことが起きてもおかしくない世の中に
なっていることを自覚していなければならない今日このごろです。

九重山に登る我々は、昨夜の大分日田や玖珠町や
天ケ瀬温泉地の橋が流される
のを
見たり、飛騨高山や長野上高地の地震や豪雨災害等々知っている場所だけに
まずは皆さん無事であってほしいと願うばかりです。
私は三途の河は納得して自力で渡りたいです。
他力での渡河は徹底的に抵抗するつもりです(笑)

さて、いろいろなストレスを皆さんもお持ちでしょうがきょうは柔らかいを
絵をみてください。女性の美を鑑賞しましょう。私は今も女性が好きです。
歳相応の女性がいいですね。あまり若いのはちょっと(笑)
そんなことできょうは浮世絵を見て頂きましょ^^/

絵の解説は下段にあります。
面白き相

DSCN9836

寛政中期の歌暦の絶頂期に産み出されたシリーズものの傑作「婦人相学体」の中の一図、
相見歌麿画となっている。この原図は我が国ではあまり見かけないもので、今回は
スイスのオ ットーリーゼ氏蔵の原画が“世界の歌磨展"に出品されたのでそれによって
この複製を作った。

画中の女は若い娘のようにもみえるがお歯黒をしているので既に結婚をしていることが
わかる。口元を鏡にうつし可愛らしい唇をかすかに開いているが、化粧中に女の示す
百面相のような変化の一瞬を巧みにとらえて、その瞬間の眼尻の表現に面白そうな女の
表情をみたとしてこの表題をつけたのであろう。

この絵の素晴しさは色調にある。使われた色は桜小紋の盛の浴衣一色で、ほかの色は
省略するというにくい程の簡潔な表現がこの絵を一層印象深いものにしている。
おそらく泰西の画家がこの美人画を見た時、この平面的な簡潔な色彩処理の巧妙さに
驚いたことであろう。なかでも一番影響を受けたのはモンマルトルの女を描き続けた
ロートレ ックであろうが、とてもこれ程印象的な女人像は表現出来なかったろうと
思われる。


難波屋おきた

DSCN9839

寛政盛時の歌磨を代表する佳品の一つである。おきたは浅草観音境 内の水茶屋難波屋の
看板娘で、当時のミス江戸とも云うべき存在であり、高島屋おひさとその美貌を争い、
彼女を見ようとする客で店は常時あふれるばかりであったという。寛政5年に出た評判記「水茶屋美人百笑」には、“天智天皇、秋の茶を飲んで、茶のおきたとてかねばこ娘、
陰れ難波屋”とうたわれている。おきたは16~18才頃まで店に出ていたが、その後の
消息は小説家の想像に任せられているのみである。

おきたの若い頃は誰が見ても美しいが、整いすぎる顔の美貌にはどことなくこの世の
ものではないような冷さがあって、この絵を見ても天から舞い下りた菩薩のようである。
手に持った茶碗のかわりに散華の花をもってきてもふさわしいような、美しい仏画をみる
おもいがする。

顔の表情、ことに眼の釣り上ったところなぞは魅力的というより、むしろ仏の美しさを
現している。
色調はこの絵を生かす為に非常に簡潔な構想をとり、着物は地味な
ねずみ色で、帯も濃い墨の花模様の太帯であり、わずかにしごきのみ に紅を使うという。若い娘を描くにしてはきわめて皮肉な表現をとっている。こんな地味な色調で、汚れを知らぬ処女の美しさを現したものはそうめったにはない。「背景に表題を書き入れないところがこの美人図を神々しいものに見せているが、左に歌の入っているものもある。


次は少々恥ずかしい?? そんなことはないですね。安心しました^^/
 
鮑取りの海女

DSCN9833
これらは肉体美ですよ!!
DSCN9834

鮑取りの海女の図は、浮世絵の題材としては石川豊信、鈴木春信時代からあるが、
歌麿の本図大錦三枚続きは最も有名で、浮世絵を知ると知らぬとにかかわらず
世界的に知れわたっている名画である。
歌麿は若い頃にも三枚続きの海女図を描いており、又小判では六枚続き がある。
北斉の「百人一首うばがえとき」中の海女の図も有名であり、幕末源氏絵にこの
裸体美をとり
あげたものも多い。女性の肉体の美しさをもっとも自然な、一般に
受け入れ易い形で
写し出すとすれば、これほど恰好なテーマはあるまい。
・・・いかがでしたか、浮世絵の女性美は・・女性だったら誰でもと思う人も、また
選びたいと思う人さまざまですね。でも最後になりますが、私の女性美の最高と
思うのが、日本人離れした「ミロのビーナス」で~す(笑)あの二の腕や
太もも、腹囲等々、あれが女性の美だと思っている私です。どうでもいいですが
今の若い女性は痩せすぎだと思っていますが、「あんたに関係ない!!」と
言われそうなのできょうはこれで終了で~す(笑)

 




少し気になることが・・・

少し気になることがありました。広島県民の森の比婆御陵について
文句をつけるつもりは全くありません(笑)・・・

しかし、この広島県民の森を一周し、また吾妻山まで足を伸ばして
思ったことは、古事記の
中の表現をよく考えると、伝説は
別として
この比婆山御陵は広島県内にあり、出雲国と伯耆国の
堺にあるはずが、出雲国
と伯耆国に接して安芸国にある、とは
古事記には書いていないのです。

たまたま、古事記を読んでいたことで、その不思議を思って
いたのですが、それはそれとして私なりに少し
考えてみたかったのです。
もちろん学問的な知識では
なく、私の読後感からの疑問でした。

下の地図を見てください。広島県民の森にある比婆御陵です。
クリックすると拡大できます。

200702広島比婆山
左の赤丸が比婆山御陵です。三本の赤線が県境で北の左側が出雲国、その右側が伯耆国、
そして南側が安芸国です。比婆御陵から伯耆国県境まで直線で約7.3km離れています。
出雲神話の話がなぜ安芸の国にかかわってくるのかが不思議な気がしていました。

ここ広島県民の森の比婆御陵には大きな岩の露出が目立ちます。

DSCN5058
小さな祠の後ろにイザナミノミコトが葬られているという伝説地です。
DSCN5059
静かな雰囲気に、ここが神聖な場所であることを感じさせます。
DSCN5060
この御陵は、この広島県民の森の遊びに来られる登山者にとって一度は目にする
人気な場所なんです^^

さて、次にご紹介する比婆山は、出雲と伯耆の堺にある比婆山です。
200702島根比婆山
南北に渡る赤い線が境界で、左が出雲国、右が伯耆国になります。
そして、比婆山と県境までの距離が約4.7kmです。

登山口の入り口にある久米神社です。
DSCN4168

低山ですが急坂を登ります。
DSCN4169

一枚岩の坂を登ります。
DSCN4174

展望所からの眺め。
DSCN4176

天然記念物の紹介。
DSCN4186

比婆山の顕彰。
DSCN4188

比婆山久米神社 奥宮。
DSCN4189

イザナギノミコトの御神陵。塀に囲まれて盛土が見えています。
DSCN4193
ちなみに比婆山についてのウィキペディアです。検索して見てください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A9%86%E5%B1%B1

さて、さて葬られたイザナミを忘れることができないイザナギはイザナミのいる
黄泉の国へとむかった。イザナギと会ったイザナミは黄泉神(ヨモツカミ)と
相談するので、決して覗き見をしないでほしいとイザナギにお願いしたのだが
イザナギはその約束を破って妻を覗き見してしまったのである。
覗き見されたイザナミは沢山の蛆にたかれて、無残な姿になっていた。
覗き見されたイザナミは恥をかかされた怒りに、イザナギは慌てて黄泉の国から
逃げ去ろうとした。黄泉(ヨモツ)しこめや黄泉軍(ヨモツグン)に追われて
辛うじて黄泉の世界から逃れたのである。
DSCN2195
この黄泉比良坂は(ヨモツヒラサカ)は、イザナギが黄泉の国から逃げ出した
出口があったところです。黄泉比良坂についてのウィキペディアです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%9D%82
この岩はその出口の穴をイザナギが塞いだ岩だと言われています。
DSCN2189

DSCN2190

DSCN2192

DSCN2188
ここは伯太の比婆山から北西に約14.5km離れた場所にあり、近くに揖屋神社が
あります。
https://nihonshinwa.com/archives/7457

長々と両比婆山を私なりに比較してみましたが古事記の表記をもとに私感を
言わせてもらえば、イザナミが葬られたところが島根県伯太にある比婆山、
そして黄泉の国からイ
ザナミに追われ逃げ出したのが揖屋にある黄泉比良坂、
このストーリーを古代の人が考えるのにふさわしい地理的条件があったのが
この場所ではなかったかと思うのでした。
まだ、ほかにも比婆山に比定するところはありますが、結論がでるには時間が
かかりそうですね。今回は私の私感でお話しましたのでお許しくださいね♪








プロフィール

Uncle Ed

夫婦で登山しています。
相方はNancy。
歳相応の軟弱登山を
楽しんでいます。




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