木曽駒ケ岳登山のあとは、中津川の馬籠宿に行ってきました。

「木曽路はすべて山の中である」・・この文章の出だしをご存じの方もいらっしゃると
思いますが、島崎藤村の「夜明け前」の文章です。
江戸幕府の末期から明治維新へ移行するまでを、藤村の祖父や父らが受け継いだ
本陣の歴史を膨大な資料を基にその当時の世相も含めて書かれた長編歴史小説です。

「東山道ともいい、木曽街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は
東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。
東海道方面を廻らないほど旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに
塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記を
ふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道すじを往来した」
(夜明け前、第一部 序の章 P6より抜粋 新潮文庫)

江戸板橋宿から中山道を大津まで六十九次ある宿場の内、木曽街道十一宿の
一つが馬籠宿ということです。木曽街道十一宿とは、贄川宿、奈良井宿、薮原宿、
宮ノ越宿、福島宿、上松宿、須原宿、野尻宿、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿等々。
この宿場は十一宿の一番西側にあたります。

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京都へ五十二里半(210km)、江戸へ八十里半(322km)と書かれていました。
当時江戸への日程は板橋宿まで十一日掛かっています。現在の歩行距離と時間を

計算してみると、一日約30kmを6~8時間かけて歩いていたと思われます。
もちろん男女差や参勤交代の行列とは比較できませんが。昔の人はすごい運動を
していたんですね。


まずは、この坂道を登ります。
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大きな水車小屋があります。現在はこの水車を回して馬籠の電力の一部を
補っている発電所とのことでした。

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この坂道がかつての木曽街道です。まわりの家の土台はしっかりと石組されてます。
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今来た道を振り返ります。樹木の奥に高く見えるのが中央アルプスの恵那山。
登山をする人間には聞き覚えのある山名です。日本百名山の一つです。

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藤村記念館です。正面の門構えは本陣にしかない門構えのようです。
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そして入館してみました。藤村の初期の資料や、その他資料がたくさんありますが、
写真は撮っていません。

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そして気になったのがこの土蔵です。
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「最早恵那山へは雪が来た。ある日おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家の
ならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿何人前、
膳何人前などと箱書したものを出したりいれたりするだけでも、主婦の一役だ。」
(夜明け前、第一部 序の章 P53より抜粋 新潮文庫)


おまんという人は、夫吉左衛門の後妻さんで藤村の父親半蔵にとって義理の母、
藤村にとっては義理の祖母にあたる人です。
もちろん半蔵もおまんも小説の中の名前です。

そして、木曽福島の役所からの差紙をおまんが、夫の吉左衛門に届けに行く
シーンでは、
「おまんはその足で、母屋から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで
歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄もある。戸前の錠もはずしてある。
夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の
二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子を登って行って見た。そこに
吉左衛門がいた」(夜明け前 第一部 序の章 P54より抜粋 新潮文庫)

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じつは、この本陣は安政大地震や明治に入ってからの火災で焼失してますが
この土蔵だけはその被害から免れて一時半蔵やお民の住まいにもなっていた場所です。

小説の中に出てくるお民とは、藤村の母にあたります。

広い敷地内には当時の本陣がしのばれる建物もありました。
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臨済宗 永昌寺は小説の中で万福寺となっています。この寺は馬籠初代島崎氏が建立
した寺で島崎氏の菩提寺になっています。ちょうど馬籠宿の裏手にこの寺があります。

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万福寺に新しい住職を迎い入れるときの一節。
「万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉の木立の間を通して、
傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことの出来るような位置にある。
松雲が寺への帰参は、沓ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈へ通って、
一礼座了で式が済んだ。」(夜明け前 第一部 第二章 P80より抜粋 新潮文庫)


本陣の前の通りから、見える恵那山。天照大神が生まれた時の胞衣(えな)を
納めたという伝説が残っており、この山の由来にもなっていると記してある。
おそらく、吉左衛門、おもん、そして半蔵、お民もここから見える恵那山に手を
合わせていたのでしょうね。

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「美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂を攀じ登って来るものは、
高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を
築いてその上に民家を建てるようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根が
その左右に並んでいる」(夜明け前 第一部 序の章 P6より抜粋  新潮文庫)

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現在の馬籠宿の通りは、昔も今もあまり変わりがないように思われます。
ただ、石垣で組まれた左右の土台までの幅は、3mから4m、広くて5mほどの
街道に、尾州藩主が江戸へ向かうときの様子はどうだったのか
・・・
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「木曽寄せの人足七百三十人、伊那の助郷千七百七十人、この人数合わせて二千五百人
を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。

宿場に集まった馬の群でも百八十匹、馬方百八十人にも上った。」(夜明け前、
第一部、第二章 P89 より抜粋 新潮文庫)
こんなに多くの人や馬がこの狭い街道を歩く様子を想像すると壮観だったと
思います。
尾州藩主等の通行では、本陣のほかにも脇本陣、また問屋、年寄、
伝馬役等々の役付がいてそれらと一緒に本陣代表がいろいろと世話役に指示などを
出さねばならぬ大役もあったようです。中々本陣も大変な仕事ですね。

そして、ここから馬籠宿を離れ、木曽街道妻籠宿へと繋がる街道になります。
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じつは我々はこの道を歩いて妻籠まで歩いて行こうと話していたのです。
妻籠までの距離は約二里1/4、9kmで時間は三時間、山歩きに慣れている我々には
どうということはなかったのですが、馬籠を出発する時間はどうしても昼前には
出発したいという希望もあり、今回は断念したのです。
この歩くコースは外国の人に人気なようで、きょうも外国人の姿も多く
ザックを背負ってトレッキングを楽しむ人多かったですね。我々もサブザックで
行くつもりでしたが、明日の仕事を考えて今回は中止したのです。ほんとに
歩いて見たい街道でした。結局、我が家に到着したのは七時半ごろ、なんだかんだで
八時間少々掛かりました。