故(カレ)、ここをもちて其の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)、宮つくるべきところを
出雲国(イズモノクニ)に求(マ)ぎたまいき、ここに須賀(スガ)のところに到りまして詔りたまはく、
「吾れここに来て、我(ア)が御心すがすがしい」とのりたまいて、其のところに宮を作りてましき。
故(カレ)、其のところをば今に須賀と云ふ。
この大神(オオカミ)初めて須賀の宮を作りたまひし時、其のところより雲立ちのぼりき。
ここに御歌を作りたまひき。
其の歌に曰(ノ)りたまはく、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ゴ)みに 八重垣作る その八重垣を
とうたひたまいき。 (古事記より)
奥出雲にある鳥髪山(トリガミサン)、現在の船通山(センツウザン 1142m)の山中で
須佐之男命が八岐大蛇を退治、大蛇の生け贄にされそうになった櫛名田比売を助け、比売と
結婚する場所として、「すがすがしい地」として宮殿を造った所が・・・・・
雲南市大東町須賀にある縣社 須我神社 なのです。
ちかくには川が流れてますが、須佐之男が八岐大蛇を退治した後に剣を
その川で荒い清めたところ、大蛇の血で川が赤く染まったので其の川は「赤川」と名づけ
られました。 その「赤川」は今、蛍の生息地として有名です。
遷宮された門の奥に、大社造りの本殿があります。
本殿が奥に見えます。
日本で初めての宮であり、和歌の発祥の地という碑があります。
八雲立つ・・・・・が初めての三十一文字だということです・・・が、これは後世なって作られた
祝宴歌ともいわれてるようです。
中心の旗の左側に本殿があります。
出雲大社や熊野大社に比べれば、小さな小さな社ですが古事記上巻に記載されている社と思うと
とても歴史を感じる社でした。
なぜ、いま須我神社の歴史を紐解いたがというと・・・・・ただ、古代の歴史に興味があったからです(笑)
というより来年は、当地や奈良県などで「古事記編さん1300年」というテーマでシンポジュームが
あるようですね。
当地は古事記の出雲神話圏の舞台であり、奈良県の大和郡山市稗田町は古事記編さんに重要な
役割を果たしている稗田阿礼の生誕地、奈良市此瀬町は古事記編さんに係わったと思われる
太朝臣安萬侶の墓誌が発見されたところで、西暦712に元明天皇から勅命を受けた2人が
どのように古事記を編さんしたかの興味がありましたので、今回はこのような記事になりました。
古事記や出雲国風土記を何回読んでも難解のこともあって上っ面だけの知識しかないですが
ただ、古代史への興味は尽きません。
宮崎耕平氏の「まぼろしの邪馬台国」を何度も読み返して、「邪馬台国」を、九州か大和か
はたまた出雲かなどの空想をめぐらすことも楽しいですね。
古事記、書紀の神話も、邪馬台国も歴史的になんらかのつながりがあると思われます。
その謎解きはわたしには無理ですが、いつかその謎解きをしてくれる人が出てくることを
楽しみにしてます。 なんとも他力本願ですが・・・(笑)
今年最後のブログが山ブログにはなりませんでしたが、あと少しで新しい年になります。
旧年中はいろいろお世話になりました。 どうぞ良いお年をお迎えくださいませ♪